まず、介護の問題を少し脇において、企業の人事として従業員に対して、どう責任を持つのかということを考えてみましょう。今流行の言葉でいうと、「健康経営」というのは、組織として従業員への対応責任を考えるときに非常に重要な概念だと思います。メディアや証券市場でも、盛んに健康経営が取り沙汰されるようになりました。でも私は、そうした現状の健康経営の概念は少し見直しをした方がよいと感じています。そこで言う健康経営とは、単なる「健康管理」の延長に過ぎないのではないかと。
不健康な状態から脱すること、あるいはその原因となる過重な労働負荷を軽減することが健康経営だと捉えられがちですが、これは健康管理の範疇だと私は考えます。では、どうして健康管理的な視点で健康経営が語られるかというと、企業の健康保険組合の厳しい経営状態が背景にあります。組合では、累積赤字など大きな問題を抱えるなか、組織的なニーズとしては、少しでも安価な対処を求めるようになります。ジェネリック医薬品への移行というのもその典型です。しかし、それは後ろ向きの発想ですよね。現状ではこの健康管理を組織的に効率よく進めることが健康経営という概念で解説されていますが、それが健康経営かというと私は違うと思います。
健康管理に加えて、もうひとつ必要な視点は「健康開発」です。健康に対して、能動的、積極的、前向きな行動をとり続けることができるかどうか。健康を状態として捉えて、それが良い悪いという視点で見るのではなく、健康に向けてどのように前向きな対処ができるのか。そのようなコンセプトを、人事はもっとしっかり作り込むべきだと思います。
ハーバードメディカルスクールの有名な研究報告が本になっているのですが、"Aging Well"というタイトルを、私の研究室の研究員が翻訳し「50歳までに生き生きとした老いを準備する」と訳しました。その「生き生きとした老い」を準備するために何が一番力を持つのかというと、個人の所得ではないし、個人の能力でもない。個人が能動的、主体的に毎日を生きることが一番重要なのだという発見でした。"Aging Well"の調査では、「今の生活に満足しているか」「今の生活を充実していると感じられるか」ということではありません。
「これから先、いくつになっても自分が前向きに生きられるか」という自信や、前向きに生きることに対する気持ちの強さを調査したのです。それに対して影響を持っていたものが、毎日を健康に生きる工夫や努力の習慣化であったり、自分の生活をコントロールできているという認識であったり、新しい変化に対して前向きに対処する基本的な姿勢を持ち、それを実践し習慣化できているかどうか、そして、生涯教育を実践しているかどうか。これらが前向きに生きるための一連の工夫であり、開発なのだと考えています。
今国会で職業能力開発促進法が改正されました。今まで職業能力開発促進法が定めていたのは、組織がその生産性を高めるために、従業員に対して職業能力開発を提供しなければならないという組織視点のものでした。なぜなら、長期安定雇用が望ましいという前提があったからです。長期安定雇用のためには、組織の責任として組織が主導して能力開発を行うべきだという考えです。ところが今は違います。流動化の時代です。人は組織間を動くのだということが前提になると、能力開発を行うのは個人の責任ということになり、組織の視点に加えて個人の視点が求められるようになるのです。
新しく改正された職業能力開発促進法の基本理念には「労働者は職業生活設計を行い、その職業生活設計に即して自発的な職業能力の開発及び向上に努めるものとすること」と明記されています。行うのは個人であり組織ではないのです。職業生活設計は個人の責任において行うものだけれど、企業はいろいろな意味でそれを支援するということが重要になります。例えば、キャリアコンサルティングの機会を設けて実施することもそのひとつです。
職業生活設計というのは、非常に幅広い概念です。自分のライフスタイルを構築して前向きに生きていくということは個人の責任ですが、それを個人に押し付けてよいということでは決してありません。組織がその支援をしっかりと行わなければならないのです。冒頭に述べた健康経営の概念と同様に、キャリアにおいても、不安や悩みの除去だけではなく、前向きに一歩踏み出して自分の可能性を開いていくキャリア開発があってこそ、組織と個人が一体となってキャリアを捉え直すことが可能になるのです。
例えば、ワーキングマザーの問題や、あるいはその前段階である「仕事を選ぶか、出産・育児に専念するか」といった自分のライフスタイルに関する選択においても、個人の判断にすべてを押し付けることは間違いだと私は考えています。むしろ、企業が情報提供を含め、キャリアアドバイスを行い、その人が前向きにライフスタイルを作っていくことができるよう支援を行うことが非常に大事です。
また、大卒でバブル期以後に入社した人たちが40代半ばになり、管理職のポストがないという状況に置かれたとき、今後どのように自分のライフキャリアをデザインし、実践していくのかという問題に直面します。そこで重要なのは、その人たちの職務満足度をチェックして、低ければ何か餌を用意して、やる気を出してもらうというようなモチベーション管理ではありません。組織の経営にとって従業員のモチベーションは大変重要と考えるならば、モチベーションを自分で開発することが重要です。モチベーション開発とは、どんな状況にあっても前向きな気持ちで自分のキャリアを作っていける支援を行うということであり、企業がモチベーション管理と開発の両輪を提供することが必要であることは言うまでもないことです。そしてこの両輪を揃えることが、モチベーション経営なのだと思います。
ポジティブな方向で支援を行うことが人事の重要な役割ですが、昨今の動向では人事は人員を削られ、一方では目に見える成果を評価することに躍起になっているというのが現実といえます。プロセス貢献、組織の風土や基盤作りへの貢献といった、成果として目に見えにくいものは評価の対象とせず、短期的な結果主義をベースにした戦略人事が横行しているように感じられます。そんな状況で「健康開発」「キャリア開発」「モチベーション開発」と言ってみたところで、そんな手間暇がかかることはやれないと言われるかもしれませんが、それをやらずして何のための組織なのかと私は思います。人事ができないなら、例えばライフキャリアサポートセンターやキャリア開発本部といった新たな部門が代替する仕組みを作って、個人が生き生きと自分のライフキャリアを実践するためのメカニズム作りを、新しい部門の目標とすればいいと考えています。それが実現したとき、本当の意味で健康経営として評価の対象になりうるのだと思います。
私はシニアを「円熟した経験者」と呼んでいますが、そういった方々が自分のライフキャリアやライフスタイルを抱えながら、前向きに日々活動できるよう支援を行うことも、やはり人事やキャリアサポートセンターの重要な役割であり責任でもあります。ワーキングマザーの問題と同様に、介護に関する問題を個人に押し付けるのもまた間違いです。生涯現役ということを念頭に置いたライフキャリアの支援を組織としてしっかり考えていくことが大事です。介護の問題が社会問題化するなか、企業にも余裕がないとなれば、個人の問題としてどんどん押し付けることになりかねません。これは介護の問題に限らず、個人が生き生きと前向きに生きるための支援全般の話であり、介護の問題もその一環として考えるべきではないかと思います。決して介護だけの特殊な問題ではないと考えます。
慶應義塾大学名誉教授。
慶応義塾大学文学部心理学科卒業後、南カリフォルニア大学大学院で社会学博士号を取得。産能大学経営情報学部教授、同大学国際経営研究所所長を経て、1991年より慶應義塾大学総合政策学部教授。1999年より同大学SFC研究所のキャリア・リソース・ラボ代表を務める。企業組織、人事・教育・キャリア問題研究の第一人者。